2017年12月29日金曜日

Percy Cerutty and me パーシーセラティと私 その2

*以下の文章はWhy Dieからの翻訳、抜粋です

第二章 
 セラティ家は北イタリアのロンバルディ地方の出身でイギリス、オーストラリアへと移民を繰り返してきた。パーシー・ウェルズ・セラティは父ハリーと母エミリーの8番目の息子として1895110日メルボルン郊外のプラーランにて生まれた。
 父親ハリーとは縁が薄く、4歳のときに両親は離婚し、以来長男のセドリックが家計を助け、母エミリーも働きに出る毎日で、さびしい幼年時代を送ることとなる。読書好きの子供として育つが、気性が激しく、その整った容貌も相まってしばしば同世代の悪童にからかわれ喧嘩をし、青あざを作り、血をにじませて家に帰ってくることがよくあった。
 12歳のときオークリーという地に移り住み、パーシー少年は自然に親しむようになる。牧場の裸馬に乗り、何マイルも探検したり、ポケットをカエルやトカゲでいっぱいにする。日が暮れて泥だらけになって家に帰ると、母エミリーは服を汚したことを怒るもののすぐに腕を回して嫌がるパーシーの顔にキスの雨を降らせるのだった。
 しばらくしてパーシーは金物店での職を見つけ、働くようになる。そのころの唯一の贅沢はスカウトと呼ばれる雑誌を買うことで、掲載されているボーイスカウトたちの格好に少年は魅せられた。しかし、制服である帽子やシャツを買うことができず、貧しさを認めるのが嫌な彼は腹いせに戦争を開始した。こうしたやり方は生涯を通じて彼の特徴だった。
 スカウトのグループが集まるホールの煙突に水袋を仕掛け、灰だらけになった皆があわてて飛び出してくるのを見物したり、皆が寝静まるのを見計らってキャンプしているテントの支柱の縄を切って回ったりした。
 皆に追いかけられるスリルを彼は大いに楽しんだ。後年彼はよく「サツに追われているつもりで走れ」と選手たちに発破をかけた。セラティ門下のランナーはレース前に最大限のパワーを生み出すため、身のうちに原始的「闘争か逃走」本能を呼び覚まさなければならなかった。
 家庭内に経済的余裕ができたのは母エミリーの伯父ジョージ・パーマーがオークリーの家に寄宿するようになってからだった。90代になる伯父は果樹園のオーナーであったが、妻と子に先立たれ、唯一の肉親であるエミリーを頼ってきたのである。彼の収入は大いに経済的負担を軽減させ、95歳で亡くなるときには遺産が残り、町の近くに引っ越すことができた。
 エミリーはメルボルンの南東に位置するマルヴァーンで6部屋ある家を借り、また下宿人を置いて家計を補った。パーシーは郵便局で電報配達人の仕事を見つけ、1910年のクリスマスイブから週10シリングで遠くの町まで自転車を漕いで回る、メッセンジャーボーイとして働き始めた。この仕事は彼の性に合い、また大いに張り切って働いた。
 第一次世界大戦前夜のこの頃、ヨーロッパの不穏な情勢はオーストラリアにも押し寄せ、年頃の男は皆民兵に志願した。パーシーもまた例外ではなかった。男性はオージーフットボール、クリケット、ボクシングに明け暮れた。パーシーはグローブを選び、初めて本格的に体を鍛え始めるが、最初の試合で手痛い敗北を蒙ってしまう。
 生来の個人主義的な彼にはチームスポーツは向かなかったが、ひょんなことで出た1マイルレースで優勝をさらい、続いて出たマイルレースでも510秒で優勝。19131127日、ようやく彼は身をささげるべきものに出会ったのだ。
 191621歳のとき、1マイル434秒のベストタイムを記録。1921年最初の妻となるドロシーと結婚し、一児ニールセンをもうける。
しかし次第に競技生活からは離れていき、40代の頃には持病である偏頭痛、妄想癖、気性の激しさが増悪し、家庭生活も上手くいかなくなり、健康をも害するようになってしまう。
この頃、彼はこんな文章を書いている。
「この数時間、愚にもつかぬ考えを記している。疲れてしまったのでかわりにピアノを弾いた。ベートーベンのソナタを弾き終えると、今まで書き連ねてきた言葉はまったく無意味だという気がしてきた」。
 「今までしてきたことはまったく無意味で非現実的である。ただ無意識下の平静、空虚だけに意味がある。それだけははっきりしている」。
 「死んでしまえば何も残らない。人生における喜びも悲しみも退屈さも美しさも消え去ってしまう」。


 精神的にも肉体的にも追い詰められた状態であった。医者に診察してもらったもの処方された強力な薬の副作用によって胃腸を痛め、膝のリューマチは悪化し、何か支えがないと立ち上がれないほどになってしまった。
 肉体と精神の境目は崩壊し、町を蹌踉めいた。自信家であった彼のプライドはずたずたに引き裂かれ、自殺を考える様にまでなる。聖書の言葉だけが彼の救いであった。
 1939年のある日、メルボルン市内の州立図書館でパーシーが本を探しているとひとりの女性司書が手助けをしてくれた。彼女の態度の親切さが心に沁み、思わず涙した。彼はいたく感動し、探してくれた本を借りるのも忘れ、外へとよろめき出た。心の中でなにかが変わった。
 信ずる心が生まれ、彼の頬は紅潮した。道行く人は皆彼を不思議そうに見つめた。足はまるで導かれるようにセントポール大聖堂へと向かった。重々しい扉を開け、中へと進むと目がほの暗さに慣れるにつれて静寂が彼の心を支配した。ステンドグラスからは七色の光が差し込み、祭壇へと近づくと大聖堂の寂寞が彼の中に流れ込んできた。誰かが自分を呼ぶ声を聞き、人の姿をみたと思ったが、次の瞬間それは消え去った。
 いすへと腰掛けると静かに己の内へ内へと意識を沈潜させていった。啓示はやってきた。外からではなく、身のうちから。神のみ前では自分は子供に過ぎないと。滂沱のごとく涙が流れ頬を濡らした。
 後年彼はこの心神耗弱の体験が大きな転機となったと述べている。体重は45kを割り、医者からは余命2年と診断された。友人に紹介された消化器系の治療で著名なキルミアー医師は彼の症状を診断しこういった。
「薬であなたを治すことはできない。」
 「あなたは知性ある方だ。あなたを救えるのは自身の智慧と生きたいという強い欲求のみだ。」
 その言葉を聴いたセラティは横たわったままじっと天井を見つめた。
 彼は決心した。20年来吸っていたタバコをやめ、キルミアー医師の提言を受け入れ、弱った胃腸をいたわるため、繊維質の豊富な食事を少しずつ一日何回にも分けて摂るようにした。
 徐々に体力を回復させていった彼はある日、競馬場を訪う。セラティは子供の頃から馬を愛し、その知性を愛でた。帰途、不思議な衝動が身のうちに湧くのを感じた。足を速め、小走りになり、そして徐々に速度を上げて地面を蹴って疾走した。息が上がり、心臓が爆発しそうになる。忘れていた感覚が蘇った。
 彼は図書館で薬学、栄養学、生理学に関する本を読み漁り、自身の回復の助けになりそうなものなら何でも取り入れた。消化の負担になる肉食を止め、オートミール、ドライフルーツ、ナッツ類を好んで摂り、菜食するようになった。
 動物性脂質を完全に排除し、果物、穀物、野菜に多く比重をおいた食事は彼を劇的に変貌させた。そして体を動かしているときは頭痛も軽減されることに気がついた。万能薬を見つけた彼は時に一日中外で過ごすようになる。泳ぎ、歩き、膝はまだ痛むもののその不快感を押しのけ、くたくたになるまで体を動かすと気が晴れ晴れとし、頭がすっきりした。
 体をいじめればいじめた分だけ力がつくように感じられ、トレーニングの身体的辛さ、しんどさ、不快感は次第に耐えうるものとなり、その成果は驚嘆すべきものとなった。
若かりし頃より初めて彼は身のうちに強さを感じた。
 「いくつになろうとも運動を始めるのに遅いということはない。」というジョージ・ハッケンシュミットの言葉は44歳になる彼を奮い立たせた。(1878年エストニア生まれのレスリングチャンピオン、ロシアンライオンの異名をとった)
 四半世紀にわたって陸上競技から離れていた彼を触発したのはアーサー・ニュートンの本であった。(1883年英国生まれ、39歳のときからランニングキャリアーを再出発させ、多くの長長距離走の記録を打ち立てた。ロンドン、ブリングトン間50マイル、100マイル15時間、60マイル7時間33分でそれぞれ走破)ニュートンの経験から裏打ちされたトレーニング方法はセラティのランニングの復活に大いに役立った。
 徐々に距離を増やすこと。無理をしないこと。試合には出過ぎないこと。始めに飛ばしすぎないこと。腕の動きは最小限に抑えること。こぶしは軽く握ること。無駄な動きをなくし、楽に走ること。足裏全体で着地すること。地面には軽く、スムーズかつすばやく着地すること。最も重要なことは効率よく走ること。
 また東洋の哲人、クリシュナムルティからも多大な影響を受けた。
 彼はこう綴っている。
 クリシュナムルティからはほかの誰よりも多くを学んだ。
 キリストからは生きていくための節度を。
 アッシジのセントフランシスコからは手本を。
 アインシュタインからは科学的アプローチを。
 ベートーベンとヴェルディからは音楽への愛を。
 ダヴィンチとミケランジェロからは美への憧憬を。
 ギリシャの哲人たちからは理性を。
 イタリアからはロマンスを。
 しかしクリシュナムルティは何よりも私を目覚めさせてくれた。」と。
 最終的に彼を身の破滅から救ったのは、徒労に等しかった生きる意味の追求から解放であり、クリシュナムルティの教えが大きくそれに寄与した。
 後年彼は神についてという題でこんな風に書いている。
 「われわれは神を見出すことも神に近づくこともできない。神がわれわれを見出すのである。幸せを追い求めることを止めたときに自ずと幸せが訪れてくるように。神がいるのではなく、神はただそこに在わすのである。」
 
 ジョージ・ハッケンシュミットの論理は彼を完全に捉えた。ハッケンシュミットは文明発達以前の人間の暮らし、生き残るために必死であった人々の環境を考え、それをトレーニングに取り入れた。その要諦はウェイトトレーニングにあり、セラティはバーベルを購入しトレーニングに励んだ。
 筋力がつくと共により遠くへそしてより速く走れることに気づいた。
 1942年の早春、痩身で白髪の鋭い目をした男がマルヴァーン・ハリアーズランニングクラブに姿を現しこう言った。
 「私はかつてここのメンバーだった。そして今また走ろうと思う。」
 誰も彼のことを知らなかったがそれも無理はなかった。セラティがハリアーズのユニフォームを着ていた頃から25年が過ぎ彼自身47歳になっていたのだから。
 彼の顔はしわに刻まれ、髪も白くはなっていたが、その体はまるで20代の若者のようであり、皮膚は浅黒く健康的に焼け、程よく筋肉のついた引き締まった体躯であった。
 194212151マイルを450秒で走り、翌年の130日には21歳のときに出したベストタイムを切る431秒で走った。一月あまりのトレーニングで25秒を縮めたことになる。
 若い選手に混じって走る銀髪の男はたちまち周囲の関心を引いた。彼は競技の世界へと再び足を踏み入れ、そして今回は自らを実験材料として走った。
 「人間は有機体であり、もともと自然の一部であるが、現在いわゆる文明というものにより、自然からはかけ離れた存在となってしまっている。自然への結びつきを再び強固にすることでわれわれの本性が明らかになるだろう」。
自身の体験から本能的に癒しを求めて自然回帰への道をとったかれは今このことを皆へと伝えるべきだと思った。

2017年12月28日木曜日

大迫傑が箱根駅伝2018の注目選手を発表



年の瀬も押し詰まりつつあり、箱根駅伝が近づいてきましたね!

11月の全日本大学駅伝では神奈川大学が優勝。地元の伊勢で観戦できました。

大迫選手も動画中で言及していますが、東海大学の鬼塚選手、素晴らしいフォームですね。

東海大学の両角監督、佐久長聖高校時代に数々の名選手を育てたその手腕が発揮されつつあるようです。

皆さんはどの選手、どの大学に注目ですか?


2017年12月15日金曜日

Percy Cerutty and me パーシーセラティと私 その1





    第一章 緑色の本
 すべての始まりは私がある本と出会ったことにある。
著者の名はパーシー・セラティ。
かつて多くのオリンピック選手を育てた類まれなる人物である。
彼の不屈の魂が時空を超えて私をオーストラリアへと導いたのである。
20年ほど前、私は当時通っていた大学の図書館で緑色の表紙をした古い本を見つけた。その本は「陸上競技 チャンピオンへの道」という邦題がつけられており、彼のトレーニング理論、栄養学、コンディショニング、選手たちの生活に触れ、なによりも独特の哲学にあふれていた。私は強く惹きつけられ、夢中になって読み、彼の考え方に深く影響を受けた。彼のもっとも強調することは自然に従え、わきあがる感情に従えというものだった。その後も何回か通読した私はいつしか彼のもとを訪れたいという気持ちに満たされるようになっていった。
 残念ながら彼は私の生まれる前に既にこの世を去っており、その願いは叶うべくもなかったが、由縁の地を見てみたいという気持ちは年々強くなっていった。
 2004年の春、私は三週間の休暇をオーストラリアで取ることを決めた。彼がかつてキャンプを張っていた場所はポートシーというメルボルンの郊外の地であることだけはわかっていたが、彼の子孫がまだその土地に住んでいるのか、トレーニングをしていた場所が残っているのかすべて何もわからなかった。彼がなくなったのはなにしろ40年近くも前のことであったし、日本で彼に関する情報を手に入れるのは不可能に近いことだった。
 南半球にあるオーストラリアは季節が日本とまったく逆になる。夏の終わりのメルボルンに降り立った私は市内のユースホステルに投宿すると、さっそく彼についての情報を集めてみようと思っていた。手始めに古本屋に入り、彼の本を探したが見つからず、町の北にある大学の図書館へ向かった。大学構内には二つの図書館があったが、見つけることはできなかった。
大学の隣には立派な州立図書館があったのでそこを訪れてみた。
 建物はメルボルンがゴールドラッシュで繁栄を極めていたときに建てられたものらしく、大きな吹き抜けのドームを持つ重厚なつくりのものだった。広々とした正面玄関を抜け階段を上がると、絵画や彫刻が飾られたギャラリーホールがあり、その奥に天井の高い大広間がある。脇の階段を上ると巨大な書棚が林立していた。
スポーツ関連の棚を探すとSchoolboy Athleticsという題名の本があり、表紙には見覚えのある厳しくもやさしいパーシー・セラティを斜めから撮った顔写真と短距離選手らしい人物の写真が印刷されていた。原書のうちの一冊を手に取ることができたということは私を少なからず感動させた。
 その本は将来のチャンピオンたるべき少年少女向けの教書であり、百数十葉のもので、各章の終わりには要約がなされ、非常に簡潔なつくりになっていた。見開きをみると1965年に英国で出版されたものでHow to become Championに続く、彼の二冊目の本になるらしかった。
 私の英語力では一日ですべてを読み通すことは難しかった。幸い宿から図書館は近く、日程にも余裕があったので三回ほど通い、読了した。特に感銘を受けたところはノートに書き写し、保存しておいた。
 それは私が初めて触れた彼の文章であり、彼の精神と哲学とバイタリティが行間からあふれ出しているように思えた。
 私は渡豪二日目にして彼の本を見つけることができた幸運に感謝しつつ、五日間のメルボルン滞在を終え彼のかつてのランニングキャンプ地、ポートシーへと向かった。

 ポートシーはモーニントン半島の先端に位置する町で昔からメルボルンに住む人たちの避暑地、別荘地として有名で、現在も比較的住民は少なく、豪壮な屋敷が点在し、巨大なサイプレスや、ティーツリーと呼ばれる灌木群に覆われた緑豊かな土地である。
 メルボルンをはるかに望むポートフィリップ湾は内海になっており、波は穏やかで桟橋にはボートやヨットが数多く停泊している。
 それとは対照的に外海の波は荒く、南極海から吹きつける風は冷たく厳しい。海岸は絶えず浸食され、奇岩が不思議な姿をさらしている。外海側は国立公園に指定されており、灌木に覆われた緩やかな丘陵が連なり、砂丘や砂浜が海岸線に沿って何キロも延びている。サーフィンには絶好の海であり、事実少し離れたところにあるベルズビーチは世界的に有名である。
 パーシー・セラティはこの自然豊かな土地で砂丘を駆け上がったり、砂浜を走ったり、ブッシュを縫うようにして何マイルも走り体を鍛えた。
 一年を通じて雨は少なく、冬でもランニングパンツ一丁、裸足で選手たちとともに走っていた。チャンピオンへの道には砂丘を選手たち(彼は息子たちと呼んでいた)を従え走る彼の写真が掲載されている。彼は写真を見てこう嘯いていたらしい。
 「私より速く走れる奴はゴマンといるだろうが、私ほど全力を尽くして懸命に走る者はいない」と。
 事実彼の姿は力感にあふれており、とても当時60歳を越す男のものとは思えない。この写真はとても有名で砂丘を駆け上がるトレーニング方法はポートシーキャンプの名物のひとつであったらしい。私も何度か試してみたが、踵まで砂に埋まり、走るというよりももがくといった感じであっという間に息が上がってしまう。
 私はメルボルンからフランクストンという町まで電車に乗り、そこからローカルバスに乗り換え、半島の先端に位置するポートシーへと向かった。車窓から海を眺めながら、いよいよキャンプ地へ近づいているということに軽い興奮を覚えていた。
 私はすぐ隣町のソレントのユースホステルに投宿した。宿のマネージャーにパーシーのことを聞いたが、彼のことを知っていたものの、キャンプ地についてのことは知らなかった。メルボルンで読んだ本からスケッチしたパーシーの似顔絵を片手に会う人ごとに彼のことを尋ねた。年配の人は彼のことを記憶にとどめている人も多かったが、すでに過去の人といった印象だった。
ソレントからポートシーまでは2kほど、私は散歩がてら向かってみることにしてみた。地図にはセラティオーバルとあり、円形の広場があるらしく、そこに行ってみれば何か分かるかもしれないと思った。
 ほぼまっすぐのバックビーチロードを歩き、右折して若干のアップダウンのある道を少し行くとパーシーセラティオーバルという看板がみえてきた。道から少し入るとちょっとしたくぼ地になっており、青々とした芝生が広がっている。広場の傍らには鉄製のプレートが埋め込まれた石があり、そこにはこう書かれていた。
 「この広場をパーシーセラティオーバルと名づく。パーシー・ウィルズ・セラティ。1895年プラーラン生まれ。1975年ポートシーにて物故。世界的コーチであり、アスリートたちをこの地で鍛える。2000424日ナンシー・カーニーによって除幕される。」
 私は犬の散歩に来ていた男性に頼み、写真を撮ってもらったが、彼もセラティに関して詳しいことは知らないようだった。
 ここで手がかりは途絶えてしまったが、私はあることに気がついた。このナンシー・カーニーさんとは誰であろうか。石碑の除幕をするくらいの人であるから、何かパーシー・セラティと深いかかわりを持つ人に違いないと。私はホステルに戻ると受付のドロシーという名のドイツ人の女の子に頼んで電話帳を貸してもらった。
 そしてアルファベット順にページを操るとエヌの行にナンシー・カーニーとある。住所と電話番号が明記されている。私はやや興奮しながら早速電話をした。後に分かったことだが、ナンシーさんはセラティの奥さんであり、セラティの没後再婚し、苗字が変わっていたのだった。
 少ししゃがれ声だがしっかりとした口調の女性が電話口に出た。私はセラティの本を読んだこと、日本からやってきた事、そして何とかお会いしたいことをしどろもどろになりながらも伝えた。
 それならば自宅へいらっしゃいということになり、土曜の午前中に伺うことになった。
 家はバックビーチロードを左に少し外れて小高くなったところにあった。建物は全体的に白く塗られ、左側は二階建てのサンルーム風の棟があり、右側はいくつかの部屋が連なる平屋になり、開放的な感じだった。家の前には花々を植えた庭があり、駐車場にはエメラルドグリーンをした小型車が停められていた。
 呼び鈴を鳴らすとナンシーさんが姿を現した。私は少し興奮しながらお会いできて光栄です、といった。彼女はよくいらしてくれたわね、と気さくに答え、家の中に招き入れてくれた。初めて受けた印象はとてもオープンマインドなひとだなということで、この感じは最後までずっと変わることはなかった。
 家の中には50代くらいの男性がひとりおり、フレッドと名乗り握手を求めてきた。いろいろと話を聞いているとナンシーさんは一人で家に住んでいるらしく、フレッドは週末だけやってきて彼女の世話をしているらしかった。
 ナンシーは「フレッドは私の世話をよくしてくれる。しすぎるくらいだわ。」といった。
つい先ごろ病気をしたらしく、そばにいつもいてくれる人もいない状況では彼が心配するのも無理はなかったが、夫であるパーシーが1975年になくなってからずっと一人でこの家に住んでいることからわかるようにナンシーは非常に自立した女性であり、そういった彼女にしてみれば世話を焼かれすぎるのが少し不満のようだった。
 手作りの豆のスープをご馳走になり、「とてもおいしいです」と私がいうと、「昔はたくさんの若者が下宿していて皆に食べさせたものよ」と得意げに語ってくれた。
 食事の後、ナンシーは奥の部屋へ入ると何かいいながら本棚をひっくり返し始めた。しばらくすると日に焼けた薄緑色の表紙のばらばらになりかけた本を持ってきた。
 それは私が図書館でかつて読んだ日本語版のチャンピオンへの道であった。
 ナンシーは、
「昔はたくさんパースの書いた本があったのだけれど、皆に全部上げてしまってこれしかないわ」といって私に手渡した。
 ナンシーは私に本をくれるつもりのようだったので、
「貴重なものですし、頂くのはちょっと・・・」と私が口ごもると、
「いいのよ。私が持っていても仕方がないし、次の世代の人の役に立てばいいのじゃないかしら。」といい、私の名のつづりを聞いて表表紙に署名をしてくれた。
 
 この一冊の本が時空を超えて私をこの地へと導いたのだ。というよりもパーシーの精神が私を導いたのだろう。

スプリント学会

が先日の9日、10日と皇學館大學で開催されていたらしく、今日大学図書館に行ったときに告知が出ていました。
というのは9日に内宮に行ったとき、東洋大学の土江コーチと谷川聡さんを見かけたのでなんでかな、と思っていたからです。
告知によると、現役選手では桐生選手や藤光選手も来ていたらしいです。
土江コーチに「100m9秒台おめでとうございました」と声をかけようか迷っているうちに一行は立ち去ってしまいました。
ところで桐生選手は日本生命に就職が決まったらしいです。
日本生命は陸上部がなく、引き続き母校の東洋大学で練習をつづけるようです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180104-00000002-ykf-spo

2017年12月6日水曜日

マラソンで2時間切りは可能か!? Is it possible to breaking 2 hours in marathon?!





キプチョゲ選手、ナイキのプロジェクトで2時間切りにいどむ!!

今年の5月にイタリアのモンヅァのサーキットで挑戦が行われていました。

その様子をナショナルジオグラフィックがドキュメンタリーで追っています。

38分あたりから実際の走行が見れます。

キプチョゲ選手が非の打ち所のないフォームで淡々と地面を蹴って進むさまは圧巻です。



その結果は...2時間25秒!!

信じられない大記録です。公式記録にはなりませんが、そんなことはどうでも良い!

What a incredible performance by Eliud Kipchoge!!
Runnig marathon at 2h 25seconds, totally astonishing, amazing....


福岡国際マラソン

大迫傑選手、ボストンに引き続きメダル獲得!
もうすこしトラックで頑張るのかと思ってましたが、マラソン適性があるようです。
また、優勝したモーエン選手はノルウェー国籍。往年の名ランナー、イングリッド・クリスチャンセンと同郷。北欧は時々強いランナーが出てきますね。。。