2017年12月15日金曜日

Percy Cerutty and me パーシーセラティと私 その一

第一章 緑色の本
 すべての始まりは私がある本と出会ったことにある。
著者の名はパーシー・セラティ。
かつて多くのオリンピック選手を育てた類まれなる人物である。
彼の不屈の魂が時空を超えて私をオーストラリアへと導いたのである。
20年ほど前、私は当時通っていた大学の図書館で緑色の表紙をした古い本を見つけた。その本は「陸上競技―チャンピオンへの道―」という邦題がつけられており、彼のトレーニング理論、栄養学、コンディショニング、選手たちの生活に触れ、なによりも独特の哲学にあふれていた。私は強く惹きつけられ、夢中になって読み、彼の考え方に深く影響を受けた。彼のもっとも強調することは自然に従え、わきあがる感情に従えというものだった。その後も何回か通読した私はいつしか彼のもとを訪れたいという気持ちに満たされるようになっていった。
 残念ながら彼は私の生まれる前に既にこの世を去っており、その願いは叶うべくもなかったが、由縁の地を見てみたいという気持ちは年々強くなっていった。
 2004年の春、私は三週間の休暇をオーストラリアで取ることを決めた。彼がかつてキャンプを張っていた場所はポートシーというメルボルンの郊外の地であることだけはわかっていたが、彼の子孫がまだその土地に住んでいるのか、トレーニングをしていた場所が残っているのかすべて何もわからなかった。彼がなくなったのはなにしろ30年近くも前のことであったし、日本で彼に関する情報を手に入れるのは不可能に近いことだった。
 南半球にあるオーストラリアは季節が日本とまったく逆になる。夏の終わりのメルボルンに降り立った私は市内のユースホステルに投宿すると、さっそく彼についての情報を集めてみようと思っていた。手始めに古本屋に入り、彼の本を探したが見つからず、町の北にある大学の図書館へ向かった。大学構内には二つの図書館があったが、見つけることはできなかった。
大学の隣には立派な州立図書館があったのでそこを訪れてみた。
 建物はメルボルンがゴールドラッシュで繁栄を極めていたときに建てられたものらしく、大きな吹き抜けのドームを持つ重厚なつくりのものだった。広々とした正面玄関を抜け階段を上がると、絵画や彫刻が飾られたギャラリーホールがあり、その奥に天井の高い大広間がある。脇の階段を上ると巨大な書棚が林立していた。
スポーツ関連の棚を探すとSchoolboy Athleticsという題名の本があり、表紙には見覚えのある厳しくもやさしいパーシー・セラティを斜めから撮った顔写真と短距離選手らしい人物の写真が印刷されていた。原書のうちの一冊を手に取ることができたということは私を少なからず感動させた。
 その本は将来のチャンピオンたるべき少年少女向けの教書であり、百数十葉のもので、各章の終わりには要約がなされ、非常に簡潔なつくりになっていた。見開きをみると1965年に英国で出版されたものでHow to become Championに続く、彼の二冊目の本になるらしかった。
 私の英語力では一日ですべてを読み通すことは難しかった。幸い宿から図書館は近く、日程にも余裕があったので三回ほど通い、読了した。特に感銘を受けたところはノートに書き写し、保存しておいた。
 それは私が初めて触れた彼の文章であり、彼の精神と哲学とバイタリティが行間からあふれ出しているように思えた。
 私は渡豪二日目にして彼の本を見つけることができた幸運に感謝しつつ、五日間のメルボルン滞在を終え彼のかつてのランニングキャンプ地、ポートシーへと向かった。

 ポートシーはモーニントン半島の先端に位置する町で昔からメルボルンに住む人たちの避暑地、別荘地として有名で、現在も比較的住民は少なく、豪壮な屋敷が点在し、巨大なサイプレスや、ティーツリーと呼ばれる灌木群に覆われた緑豊かな土地である。
 メルボルンをはるかに望むポートフィリップ湾は内海になっており、波は穏やかで桟橋にはボートやヨットが数多く停泊している。
 それとは対照的に外海の波は荒く、南極海から吹きつける風は冷たく厳しい。海岸は絶えず浸食され、奇岩が不思議な姿をさらしている。外海側は国立公園に指定されており、灌木に覆われた緩やかな丘陵が連なり、砂丘や砂浜が海岸線に沿って何キロも延びている。サーフィンには絶好の海であり、事実少し離れたところにあるベルズビーチは世界的に有名である。
 パーシー・セラティはこの自然豊かな土地で砂丘を駆け上がったり、砂浜を走ったり、ブッシュを縫うようにして何マイルも走り体を鍛えた。
 一年を通じて雨は少なく、冬でもランニングパンツ一丁、裸足で選手たちとともに走っていた。チャンピオンへの道には砂丘を選手たち(彼は息子たちと呼んでいた)を従え走る彼の写真が掲載されている。彼は写真を見てこう嘯いていたらしい。
 「私より速く走れる奴はゴマンといるだろうが、私ほど全力を尽くして懸命に走る者はいない」と。
 事実彼の姿は力感にあふれており、とても当時60歳を越す男のものとは思えない。この写真はとても有名で砂丘を駆け上がるトレーニング方法はポートシーキャンプの名物のひとつであったらしい。私も何度か試してみたが、踵まで砂に埋まり、走るというよりももがくといった感じであっという間に息が上がってしまう。
 私はメルボルンからフランクストンという町まで電車に乗り、そこからローカルバスに乗り換え、半島の先端に位置するポートシーへと向かった。車窓から海を眺めながら、いよいよキャンプ地へ近づいているということに軽い興奮を覚えていた。
 私はすぐ隣町のソレントのユースホステルに投宿した。宿のマネージャーにパーシーのことを聞いたが、彼のことを知っていたものの、キャンプ地についてのことは知らなかった。メルボルンで読んだ本からスケッチしたパーシーの似顔絵を片手に会う人ごとに彼のことを尋ねた。年配の人は彼のことを記憶にとどめている人も多かったが、すでに過去の人といった印象だった。
ソレントからポートシーまでは2kほど、私は散歩がてら向かってみることにしてみた。地図にはセラティオーバルとあり、円形の広場があるらしく、そこに行ってみれば何か分かるかもしれないと思った。
 ほぼまっすぐのバックビーチロードを歩き、右折して若干のアップダウンのある道を少し行くとパーシーセラティオーバルという看板がみえてきた。道から少し入るとちょっとしたくぼ地になっており、青々とした芝生が広がっている。広場の傍らには鉄製のプレートが埋め込まれた石があり、そこにはこう書かれていた。
 「この広場をパーシーセラティオーバルと名づく。パーシー・ウィルズ・セラティ。1895年プラーラン生まれ。1975年ポートシーにて物故。世界的コーチであり、アスリートたちをこの地で鍛える。2000424日ナンシー・カーニーによって除幕される。」
 私は犬の散歩に来ていた男性に頼み、写真を撮ってもらったが、彼もセラティに関して詳しいことは知らないようだった。
 ここで手がかりは途絶えてしまったが、私はあることに気がついた。このナンシー・カーニーさんとは誰であろうか。石碑の除幕をするくらいの人であるから、何かパーシー・セラティと深いかかわりを持つ人に違いないと。私はホステルに戻ると受付のドロシーという名のドイツ人の女の子に頼んで電話帳を貸してもらった。
 そしてアルファベット順にページを操るとエヌの行にナンシー・カーニーとある。住所と電話番号が明記されている。私はやや興奮しながら早速電話をした。後に分かったことだが、ナンシーさんはセラティの奥さんであり、セラティの没後再婚し、苗字が変わっていたのだった。
 少ししゃがれ声だがしっかりとした口調の女性が電話口に出た。私はセラティの本を読んだこと、日本からやってきた事、そして何とかお会いしたいことをしどろもどろになりながらも伝えた。
 それならば自宅へいらっしゃいということになり、土曜の午前中に伺うことになった。
 家はバックビーチロードを左に少し外れて小高くなったところにあった。建物は全体的に白く塗られ、左側は二階建てのサンルーム風の棟があり、右側はいくつかの部屋が連なる平屋になり、開放的な感じだった。家の前には花々を植えた庭があり、駐車場にはエメラルドグリーンをした小型車が停められていた。
 呼び鈴を鳴らすとナンシーさんが姿を現した。私は少し興奮しながらお会いできて光栄です、といった。彼女はよくいらしてくれたわね、と気さくに答え、家の中に招き入れてくれた。初めて受けた印象はとてもオープンマインドなひとだなということで、この感じは最後までずっと変わることはなかった。
 家の中には50代くらいの男性がひとりおり、フレッドと名乗り握手を求めてきた。いろいろと話を聞いているとナンシーさんは一人で家に住んでいるらしく、フレッドは週末だけやってきて彼女の世話をしているらしかった。
 ナンシーは「フレッドは私の世話をよくしてくれる。しすぎるくらいだわ。」といった。
つい先ごろ病気をしたらしく、そばにいつもいてくれる人もいない状況では彼が心配するのも無理はなかったが、夫であるパーシーが1975年になくなってからずっと一人でこの家に住んでいることからわかるようにナンシーは非常に自立した女性であり、そういった彼女にしてみれば世話を焼かれすぎるのが少し不満のようだった。
 手作りの豆のスープをご馳走になり、「とてもおいしいです」と私がいうと、「昔はたくさんの若者が下宿していて皆に食べさせたものよ」と得意げに語ってくれた。
 食事の後、ナンシーは奥の部屋へ入ると何かいいながら本棚をひっくり返し始めた。しばらくすると日に焼けた薄緑色の表紙のばらばらになりかけた本を持ってきた。
 それは私が図書館でかつて読んだ日本語版のチャンピオンへの道であった。
 ナンシーは、
「昔はたくさんパースの書いた本があったのだけれど、皆に全部上げてしまってこれしかないわ」といって私に手渡した。
 ナンシーは私に本をくれるつもりのようだったので、
「貴重なものですし、頂くのはちょっと・・・」と私が口ごもると、
「いいのよ。私が持っていても仕方がないし、次の世代の人の役に立てばいいのじゃないかしら。」といい、私の名のつづりを聞いて表表紙に署名をしてくれた。
 
 この一冊の本が時空を超えて私をこの地へと導いたのだ。というよりもパーシーの精神が私を導いたのだろう。

スプリント学会

が先日の9日、10日と皇學館大學で開催されていたらしく、今日大学図書館に行ったときに告知が出ていました。
というのは9日に内宮に行ったとき、東洋大学の土江コーチと谷川聡さんを見かけたのでなんでかな、と思っていたからです。
告知によると、現役選手では桐生選手や藤光選手も来ていたらしいです。
土江コーチに「100m9秒台おめでとうございました」と声をかけようか迷っているうちに一行は立ち去ってしまいました。
ところで桐生選手は日本生命に就職が決まったらしいです。
日本生命は陸上部がなく、引き続き母校の東洋大学で練習をつづけるようです。

2017年12月6日水曜日

マラソンで2時間切りは可能か!? Is it possible to breaking 2 hours in marathon?!





キプチョゲ選手、ナイキのプロジェクトで2時間切りにいどむ!!

今年の5月にイタリアのモンヅァのサーキットで挑戦が行われていました。

その様子をナショナルジオグラフィックがドキュメンタリーで追っています。

38分あたりから実際の走行が見れます。

キプチョゲ選手が非の打ち所のないフォームで淡々と地面を蹴って進むさまは圧巻です。



その結果は...2時間25秒!!

信じられない大記録です。公式記録にはなりませんが、そんなことはどうでも良い!

What a incredible performance by Eliud Kipchoge!!
Runnig marathon at 2h 25seconds, totally astonishing, amazing....


福岡国際マラソン

大迫傑選手、ボストンに引き続きメダル獲得!
もうすこしトラックで頑張るのかと思ってましたが、マラソン適性があるようです。
また、優勝したモーエン選手はノルウェー国籍。往年の名ランナー、イングリッド・クリスチャンセンと同郷。北欧は時々強いランナーが出てきますね。。。

2017年10月29日日曜日

東海地区新人戦

が内宮そばの陸上競技場で開催されました。私が今住んでいる愚狂庵は民泊もしていて、昨夜は親御さんが観戦のために泊まりました。娘さんは愛知の至学館に通っており、200mに出場とのことでした。私も雨で仕事ができなかったので久しぶりに陸上観戦と相成りました。一人でも知っている選手がいると観戦も楽しいものです。

競技場はとこわか国体の為に改修が成ったばかりで、21日が杮落としでした。昨日今日と荒天にも関わらず、好記録が続出し、良いトラックのようです。



2017年10月10日火曜日

ゼッケン

先日、すぐ隣にある神宮弓道場で海道一の弓取りを決める、天皇杯、皇后杯がありました。選手は全国からの選りすぐり。弓士達の挙措は威厳がありながらも典雅、おもむろに弓を引き絞ると矢が離れ、水を打ったような道場に活ッと音が響きます。的に的中する独特の音です。
ところで選手たちはゼッケン何番何の何某と放送が入って入場してきました。
弓道界ではまだゼッケンという呼称を使っているのだなーとボンヤリ思いました。
というのは陸上界でも昔はゼッケンと言っていたからです。
私が高校生くらいのときからゼッケンはナンバーカードnumber card、コースcourseはレーンlaneというようになりました。位置について用意ドンもオンユアマークon your mark、ゲットセットget setと変わりつつあるようです。どうも世界標準にあわせるためのルール改正のようです。
選手たちも海外に遠征したときに調子が狂わず慌てなくすむしいろいろな配慮があるのかもしれません。
ちなみにゼッケンは語源は不明ながらドイツ語由来らしく、日本独特の呼称のようです。

2017年9月15日金曜日

桐生選手快挙!!

とうとう出ました!日本人初9秒台!!
一番初めに王手をかけた選手が壁を突破してくれて、良かったなー
以前京都の東寺に行ったときに洛南高校のそばを通り、地元の人から練習熱心な子だったよーという話を聞きました。
山縣、多田、ケンブリッジ、サニブラウン、各選手の奮起も期待します。

The breakthrough by Kiryu Yoshihide!
Congratulations and expecting other Japanese sprinters inspiration!! 

2017年9月6日水曜日

溝口和洋選手 85m02

一投に賭ける


一投に賭けるを読みました。刊行後から気にはなっていましたが、ようやく入手。数々の伝説が残る槍投げの溝口和洋選手、その独白に近い形で書かれた本です。1989年にサンノゼ国際グランプリで出した87m60cmは現在も日本記録であり、計測当初は8cm長く発表され当時の世界記録を更新したといわれました。
大事な試合前に女を抱く、試合中にタバコを吸う、終われば呑みに行くという所業が批判を受けますが、実態は全て槍を遠くに投げるための実験だった、ということです。
トレーニングの常識を疑い、良否を自ら試した上で行動を決めていたののです。
ウェイトトレーニングを重視し、常軌を逸した練習量を自らに課しましたが、それもまた意味のあるものでした。究極の現実主義者、徹底した実証主義者といえると思います。

槍を遠くに飛ばすためになにをしたら良いのか考えることは、どうやったら速く走れるのか考えることと一緒だと思います。

私の敬愛するPercy Cerutty翁も常識を疑った実証主義者で、ウェイトトレーニングを重視し、長距離競技に活かしました。

万人にとって良いもの(常識)というものはなく、自分にとって良いものを取り入れていく姿勢は大切だと思いました。
https://youtu.be/PXZWJHMBnIQ

2017年8月12日土曜日

朝熊山ヒルクライム

8月6日、伊勢スカイラインを登るヒルクライムレースに出場してきました。
朝熊山は標高555m、神宮の鬼門を守る金剛証寺が山頂付近にあり、展望台からは伊勢湾、太平洋、志摩半島、天気の良い日は富士山も望めます。
コースは8kくらい、尾根までの斜度は概ね平均していて、尾根に上ってから一旦下りがあり、最後展望台への登りが一番きついです。GT号、クロちゃんはDHバーを外し前輪を軽量ホイールに変えて一応ヒルクライム仕様。
3年前に一度出場して以来のヒルクライムレースでした。
タイムは不明。28分くらいかな?

2017年7月19日水曜日

1マイル4分の壁

1940年代スウェーデン人のGunder Heagが4分1秒3まで迫るもその壁は厚く、第2次世界大戦を挟み記録更新は持ち越しとなった。
戦後何人かがその壁に挑むもことごとく撥ね返され、当時不可能とされていたエベレスト登頂、南極点到達にも比せられ、1マイル4分をきるのは人類には無理といわれていた。
1950年代にはいると豪州のJhon Landy、米国のWes Santee、英国のRodger Bannisterがこぞって好記録を出し誰が人類史上初めて4分の壁を切るか、衆目を集めていた。
Jhon Landyは4分2秒台を立て続けに記録し、1番の有望株であったが、4分の壁を評して「あと2秒それはたいしたことではないかもしれないが、一旦トラックに立つと残り15ヤードは堅固で貫通不可能、まるでセメントの壁のようだ」と言った。
Oxfordの医学生であったRodger Bannisterは自らの身体を実験台とし、医学的見地からその壁は十分破れると踏んでいた。
そして1954年の5月6日の風の強い日、OxfordのIffley roadにあるトラックで、友人のChris ChatawayとChris Brasherの力を借り57"5-1'58-3'00"2-3'59"4で走り見事大記録を達成する...
とここまでは前置きとなります。
先日妹の住んでいるLondonを訪問したのですが、この機会にこの歴史的快挙がなされた場所にぜひ行ってみようと思いました。

7月10日、LondonのPaddington駅から列車に乗ってOxfordに向かいました。Oxford駅前は近代的でしたが、町並みは古く教会、城、学寮、旅籠、酒場などが立ち並び、石畳の古い路地が主要道路につながっていました。10c頃に城ができ、都市を成したらしく、古城の真横には高さ50m位の傾斜の急な古墳があり、古くは塔が建てられ周囲を睥睨していました。頂上直下に墳丘の中央に向かって降りる階段が掘られ、古井戸がありました。街中には高い石造りの壁に囲まれた学寮が点在し、その中は窺うことはできませんでした。
町のすぐそばにはThames川が流れていてその支流であるCherwell川の小径は大きな樹がはえ歩くにはとても気持ちが良かったです。川には小船が浮かび、棹で川底を突きゆるゆると進んでいました。人々は太陽と水を楽しんでいる様子でした。川では漕艇が行われ、一糸乱れぬ櫂捌き。
橋を渡ると差路がありOxford大学のSports Centerへ200mとあり、標識にはRodger Bannisterがそこで1954年5月6日の風強き日に記録を打ち立てたと記載されていました。Iffley roadの細い路地を進むと左手に競技場が見えました。競技場には小さなメインスタンド、バックストレッチ側は6レーンで外には芝生が生え、プール、ジム、隣にはテニスコートが併設されていました。地元の人たちが訪れ銘々がそれぞれのトレーニングをしていました。一部の建物は改修中で壁にRodger Bannisterが4分を切った時の大きな写真が掲げられていました。
バックストレッチに荷物を置き、ランパンに着替え、久しぶりのトラックの感触を確かめました。トラックで走るのは本当に久しぶり。歴史的な記録が打ち立てられた場所で走るのはとても感動的でした。時折地元のランナーが訪れトラックに入って走っていました。
今1マイルどのくらいで走れるのだろうか。

膝に少し不安が残るが裸足で走る。足が突っ張る感じで走り辛い。少し風が強くホームストレッチでは少々の向かい風。何周走ったのだろうか。少しづつペースアップして走る。全力では走れない。腕を強く振ることに力をこめる。影でフォームを確かめる。そこそこの感じ。ゴールしてから半周休み、流しを入れる。額に汗が浮かび流れ落ちるのを感じた。その感覚がとても心地よかった。バックストレッチに戻り、身体をほぐし、足を水で洗う。

持参したFour Minutes Mileの写真と現場を照らし合わせてみました。100mスタートの後ろ側の3,4階建ての建物はそのまま残っていました。まさにこの場所で60余年前にRodger Bannisterが当時不可能といわれていた1マイル4分の壁を、友人のChris Chataway、Chris Brasherの力を借り3'59"4で走り破ったのです。立派なスタジアムではなく、草トラックじみたまま地元のランナーが自由に入れるままのこされているのはとても好印象でした。
今度訪れるときは1マイルのタイムトライアルでもしてみよう!!

2017年2月15日水曜日

ウェイトトレーニング

一昨年、左ひざの内側靭帯をひどく伸ばし一時期は歩くこともままならず、大腿部の筋力が落ちてしまいました。大分回復はしてきていますが、いまだに一回り左の腿が細く筋力の不均衡があります。
自宅のそばに市営のジムがあり、230円という破格の値段でトレーニングできることがわかったので最近は3日に一度くらいの頻度で通い、左足の強化に努めています。

写真は内宮の古殿地。神気漂う荘厳な雰囲気の場所です。 


2017年1月14日土曜日

久々投稿

伊勢に来てから身辺の変化がめまぐるしく、なかなかきちっと走れていませんでしたが
今年はランニング復活しようと思っています。
昨日は五十鈴川沿いをジョグしました。
時間を忘れて、気持ちの赴くまま、身体と対話しながら走るのはとても気持ちが良い、という事を思い出しました。

I haven't been run regularly since I moved Ise, but this year I will run.