すべての始まりは私がある本と出会ったことにある。
著者の名はパーシー・セラティ。
かつて多くのオリンピック選手を育てた類まれなる人物である。
彼の不屈の魂が時空を超えて私をオーストラリアへと導いたのである。
20年ほど前、私は当時通っていた大学の図書館で緑色の表紙をした古い本を見つけた。その本は「陸上競技 チャンピオンへの道」という邦題がつけられており、彼のトレーニング理論、栄養学、コンディショニング、選手たちの生活に触れ、なによりも独特の哲学にあふれていた。私は強く惹きつけられ、夢中になって読み、彼の考え方に深く影響を受けた。彼のもっとも強調することは自然に従え、わきあがる感情に従えというものだった。その後も何回か通読した私はいつしか彼のもとを訪れたいという気持ちに満たされるようになっていった。
残念ながら彼は私の生まれる前に既にこの世を去っており、その願いは叶うべくもなかったが、由縁の地を見てみたいという気持ちは年々強くなっていった。
2004年の春、私は三週間の休暇をオーストラリアで取ることを決めた。彼がかつてキャンプを張っていた場所はポートシーというメルボルンの郊外の地であることだけはわかっていたが、彼の子孫がまだその土地に住んでいるのか、トレーニングをしていた場所が残っているのかすべて何もわからなかった。彼がなくなったのはなにしろ40年近くも前のことであったし、日本で彼に関する情報を手に入れるのは不可能に近いことだった。
南半球にあるオーストラリアは季節が日本とまったく逆になる。夏の終わりのメルボルンに降り立った私は市内のユースホステルに投宿すると、さっそく彼についての情報を集めてみようと思っていた。手始めに古本屋に入り、彼の本を探したが見つからず、町の北にある大学の図書館へ向かった。大学構内には二つの図書館があったが、見つけることはできなかった。
大学の隣には立派な州立図書館があったのでそこを訪れてみた。
建物はメルボルンがゴールドラッシュで繁栄を極めていたときに建てられたものらしく、大きな吹き抜けのドームを持つ重厚なつくりのものだった。広々とした正面玄関を抜け階段を上がると、絵画や彫刻が飾られたギャラリーホールがあり、その奥に天井の高い大広間がある。脇の階段を上ると巨大な書棚が林立していた。
スポーツ関連の棚を探すとSchoolboy Athleticsという題名の本があり、表紙には見覚えのある厳しくもやさしいパーシー・セラティを斜めから撮った顔写真と短距離選手らしい人物の写真が印刷されていた。原書のうちの一冊を手に取ることができたということは私を少なからず感動させた。
その本は将来のチャンピオンたるべき少年少女向けの教書であり、百数十葉のもので、各章の終わりには要約がなされ、非常に簡潔なつくりになっていた。見開きをみると1965年に英国で出版されたものでHow to become Championに続く、彼の二冊目の本になるらしかった。
私の英語力では一日ですべてを読み通すことは難しかった。幸い宿から図書館は近く、日程にも余裕があったので三回ほど通い、読了した。特に感銘を受けたところはノートに書き写し、保存しておいた。
それは私が初めて触れた彼の文章であり、彼の精神と哲学とバイタリティが行間からあふれ出しているように思えた。
私は渡豪二日目にして彼の本を見つけることができた幸運に感謝しつつ、五日間のメルボルン滞在を終え彼のかつてのランニングキャンプ地、ポートシーへと向かった。
ポートシーはモーニントン半島の先端に位置する町で昔からメルボルンに住む人たちの避暑地、別荘地として有名で、現在も比較的住民は少なく、豪壮な屋敷が点在し、巨大なサイプレスや、ティーツリーと呼ばれる灌木群に覆われた緑豊かな土地である。
メルボルンをはるかに望むポートフィリップ湾は内海になっており、波は穏やかで桟橋にはボートやヨットが数多く停泊している。
それとは対照的に外海の波は荒く、南極海から吹きつける風は冷たく厳しい。海岸は絶えず浸食され、奇岩が不思議な姿をさらしている。外海側は国立公園に指定されており、灌木に覆われた緩やかな丘陵が連なり、砂丘や砂浜が海岸線に沿って何キロも延びている。サーフィンには絶好の海であり、事実少し離れたところにあるベルズビーチは世界的に有名である。
パーシー・セラティはこの自然豊かな土地で砂丘を駆け上がったり、砂浜を走ったり、ブッシュを縫うようにして何マイルも走り体を鍛えた。
一年を通じて雨は少なく、冬でもランニングパンツ一丁、裸足で選手たちとともに走っていた。チャンピオンへの道には砂丘を選手たち(彼は息子たちと呼んでいた)を従え走る彼の写真が掲載されている。彼は写真を見てこう嘯いていたらしい。
「私より速く走れる奴はゴマンといるだろうが、私ほど全力を尽くして懸命に走る者はいない」と。
事実彼の姿は力感にあふれており、とても当時60歳を越す男のものとは思えない。この写真はとても有名で砂丘を駆け上がるトレーニング方法はポートシーキャンプの名物のひとつであったらしい。私も何度か試してみたが、踵まで砂に埋まり、走るというよりももがくといった感じであっという間に息が上がってしまう。
私はメルボルンからフランクストンという町まで電車に乗り、そこからローカルバスに乗り換え、半島の先端に位置するポートシーへと向かった。車窓から海を眺めながら、いよいよキャンプ地へ近づいているということに軽い興奮を覚えていた。
私はすぐ隣町のソレントのユースホステルに投宿した。宿のマネージャーにパーシーのことを聞いたが、彼のことを知っていたものの、キャンプ地についてのことは知らなかった。メルボルンで読んだ本からスケッチしたパーシーの似顔絵を片手に会う人ごとに彼のことを尋ねた。年配の人は彼のことを記憶にとどめている人も多かったが、すでに過去の人といった印象だった。
ソレントからポートシーまでは2kほど、私は散歩がてら向かってみることにしてみた。地図にはセラティオーバルとあり、円形の広場があるらしく、そこに行ってみれば何か分かるかもしれないと思った。
ほぼまっすぐのバックビーチロードを歩き、右折して若干のアップダウンのある道を少し行くとパーシーセラティオーバルという看板がみえてきた。道から少し入るとちょっとしたくぼ地になっており、青々とした芝生が広がっている。広場の傍らには鉄製のプレートが埋め込まれた石があり、そこにはこう書かれていた。
「この広場をパーシーセラティオーバルと名づく。パーシー・ウィルズ・セラティ。1895年プラーラン生まれ。1975年ポートシーにて物故。世界的コーチであり、アスリートたちをこの地で鍛える。2000年4月24日ナンシー・カーニーによって除幕される。」
私は犬の散歩に来ていた男性に頼み、写真を撮ってもらったが、彼もセラティに関して詳しいことは知らないようだった。
ここで手がかりは途絶えてしまったが、私はあることに気がついた。このナンシー・カーニーさんとは誰であろうか。石碑の除幕をするくらいの人であるから、何かパーシー・セラティと深いかかわりを持つ人に違いないと。私はホステルに戻ると受付のドロシーという名のドイツ人の女の子に頼んで電話帳を貸してもらった。
そしてアルファベット順にページを操るとエヌの行にナンシー・カーニーとある。住所と電話番号が明記されている。私はやや興奮しながら早速電話をした。後に分かったことだが、ナンシーさんはセラティの奥さんであり、セラティの没後再婚し、苗字が変わっていたのだった。
少ししゃがれ声だがしっかりとした口調の女性が電話口に出た。私はセラティの本を読んだこと、日本からやってきた事、そして何とかお会いしたいことをしどろもどろになりながらも伝えた。
それならば自宅へいらっしゃいということになり、土曜の午前中に伺うことになった。
家はバックビーチロードを左に少し外れて小高くなったところにあった。建物は全体的に白く塗られ、左側は二階建てのサンルーム風の棟があり、右側はいくつかの部屋が連なる平屋になり、開放的な感じだった。家の前には花々を植えた庭があり、駐車場にはエメラルドグリーンをした小型車が停められていた。
呼び鈴を鳴らすとナンシーさんが姿を現した。私は少し興奮しながらお会いできて光栄です、といった。彼女はよくいらしてくれたわね、と気さくに答え、家の中に招き入れてくれた。初めて受けた印象はとてもオープンマインドなひとだなということで、この感じは最後までずっと変わることはなかった。
家の中には50代くらいの男性がひとりおり、フレッドと名乗り握手を求めてきた。いろいろと話を聞いているとナンシーさんは一人で家に住んでいるらしく、フレッドは週末だけやってきて彼女の世話をしているらしかった。
ナンシーは「フレッドは私の世話をよくしてくれる。しすぎるくらいだわ。」といった。
つい先ごろ病気をしたらしく、そばにいつもいてくれる人もいない状況では彼が心配するのも無理はなかったが、夫であるパーシーが1975年になくなってからずっと一人でこの家に住んでいることからわかるようにナンシーは非常に自立した女性であり、そういった彼女にしてみれば世話を焼かれすぎるのが少し不満のようだった。
手作りの豆のスープをご馳走になり、「とてもおいしいです」と私がいうと、「昔はたくさんの若者が下宿していて皆に食べさせたものよ」と得意げに語ってくれた。
食事の後、ナンシーは奥の部屋へ入ると何かいいながら本棚をひっくり返し始めた。しばらくすると日に焼けた薄緑色の表紙のばらばらになりかけた本を持ってきた。
それは私が図書館でかつて読んだ日本語版のチャンピオンへの道であった。
ナンシーは、
「昔はたくさんパースの書いた本があったのだけれど、皆に全部上げてしまってこれしかないわ」といって私に手渡した。
ナンシーは私に本をくれるつもりのようだったので、
「貴重なものですし、頂くのはちょっと・・・」と私が口ごもると、
「いいのよ。私が持っていても仕方がないし、次の世代の人の役に立てばいいのじゃないかしら。」といい、私の名のつづりを聞いて表表紙に署名をしてくれた。
この一冊の本が時空を超えて私をこの地へと導いたのだ。というよりもパーシーの精神が私を導いたのだろう。
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