*以下の文章はWhy Dieからの翻訳、抜粋です
第二章
セラティ家は北イタリアのロンバルディ地方の出身でイギリス、オーストラリアへと移民を繰り返してきた。パーシー・ウェルズ・セラティは父ハリーと母エミリーの8番目の息子として1895年1月10日メルボルン郊外のプラーランにて生まれた。
父親ハリーとは縁が薄く、4歳のときに両親は離婚し、以来長男のセドリックが家計を助け、母エミリーも働きに出る毎日で、さびしい幼年時代を送ることとなる。読書好きの子供として育つが、気性が激しく、その整った容貌も相まってしばしば同世代の悪童にからかわれ喧嘩をし、青あざを作り、血をにじませて家に帰ってくることがよくあった。
12歳のときオークリーという地に移り住み、パーシー少年は自然に親しむようになる。牧場の裸馬に乗り、何マイルも探検したり、ポケットをカエルやトカゲでいっぱいにする。日が暮れて泥だらけになって家に帰ると、母エミリーは服を汚したことを怒るもののすぐに腕を回して嫌がるパーシーの顔にキスの雨を降らせるのだった。
しばらくしてパーシーは金物店での職を見つけ、働くようになる。そのころの唯一の贅沢はスカウトと呼ばれる雑誌を買うことで、掲載されているボーイスカウトたちの格好に少年は魅せられた。しかし、制服である帽子やシャツを買うことができず、貧しさを認めるのが嫌な彼は腹いせに戦争を開始した。こうしたやり方は生涯を通じて彼の特徴だった。
スカウトのグループが集まるホールの煙突に水袋を仕掛け、灰だらけになった皆があわてて飛び出してくるのを見物したり、皆が寝静まるのを見計らってキャンプしているテントの支柱の縄を切って回ったりした。
皆に追いかけられるスリルを彼は大いに楽しんだ。後年彼はよく「サツに追われているつもりで走れ」と選手たちに発破をかけた。セラティ門下のランナーはレース前に最大限のパワーを生み出すため、身のうちに原始的「闘争か逃走」本能を呼び覚まさなければならなかった。
家庭内に経済的余裕ができたのは母エミリーの伯父ジョージ・パーマーがオークリーの家に寄宿するようになってからだった。90代になる伯父は果樹園のオーナーであったが、妻と子に先立たれ、唯一の肉親であるエミリーを頼ってきたのである。彼の収入は大いに経済的負担を軽減させ、95歳で亡くなるときには遺産が残り、町の近くに引っ越すことができた。
エミリーはメルボルンの南東に位置するマルヴァーンで6部屋ある家を借り、また下宿人を置いて家計を補った。パーシーは郵便局で電報配達人の仕事を見つけ、1910年のクリスマスイブから週10シリングで遠くの町まで自転車を漕いで回る、メッセンジャーボーイとして働き始めた。この仕事は彼の性に合い、また大いに張り切って働いた。
第一次世界大戦前夜のこの頃、ヨーロッパの不穏な情勢はオーストラリアにも押し寄せ、年頃の男は皆民兵に志願した。パーシーもまた例外ではなかった。男性はオージーフットボール、クリケット、ボクシングに明け暮れた。パーシーはグローブを選び、初めて本格的に体を鍛え始めるが、最初の試合で手痛い敗北を蒙ってしまう。
生来の個人主義的な彼にはチームスポーツは向かなかったが、ひょんなことで出た1マイルレースで優勝をさらい、続いて出たマイルレースでも5分10秒で優勝。1913年11月27日、ようやく彼は身をささげるべきものに出会ったのだ。
1916年21歳のとき、1マイル4分34秒のベストタイムを記録。1921年最初の妻となるドロシーと結婚し、一児ニールセンをもうける。
しかし次第に競技生活からは離れていき、40代の頃には持病である偏頭痛、妄想癖、気性の激しさが増悪し、家庭生活も上手くいかなくなり、健康をも害するようになってしまう。
この頃、彼はこんな文章を書いている。
「この数時間、愚にもつかぬ考えを記している。疲れてしまったのでかわりにピアノを弾いた。ベートーベンのソナタを弾き終えると、今まで書き連ねてきた言葉はまったく無意味だという気がしてきた」。
「今までしてきたことはまったく無意味で非現実的である。ただ無意識下の平静、空虚だけに意味がある。それだけははっきりしている」。
「死んでしまえば何も残らない。人生における喜びも悲しみも退屈さも美しさも消え去ってしまう」。
精神的にも肉体的にも追い詰められた状態であった。医者に診察してもらったもの処方された強力な薬の副作用によって胃腸を痛め、膝のリューマチは悪化し、何か支えがないと立ち上がれないほどになってしまった。
肉体と精神の境目は崩壊し、町を蹌踉めいた。自信家であった彼のプライドはずたずたに引き裂かれ、自殺を考える様にまでなる。聖書の言葉だけが彼の救いであった。
1939年のある日、メルボルン市内の州立図書館でパーシーが本を探しているとひとりの女性司書が手助けをしてくれた。彼女の態度の親切さが心に沁み、思わず涙した。彼はいたく感動し、探してくれた本を借りるのも忘れ、外へとよろめき出た。心の中でなにかが変わった。
信ずる心が生まれ、彼の頬は紅潮した。道行く人は皆彼を不思議そうに見つめた。足はまるで導かれるようにセントポール大聖堂へと向かった。重々しい扉を開け、中へと進むと目がほの暗さに慣れるにつれて静寂が彼の心を支配した。ステンドグラスからは七色の光が差し込み、祭壇へと近づくと大聖堂の寂寞が彼の中に流れ込んできた。誰かが自分を呼ぶ声を聞き、人の姿をみたと思ったが、次の瞬間それは消え去った。
いすへと腰掛けると静かに己の内へ内へと意識を沈潜させていった。啓示はやってきた。外からではなく、身のうちから。神のみ前では自分は子供に過ぎないと。滂沱のごとく涙が流れ頬を濡らした。
後年彼はこの心神耗弱の体験が大きな転機となったと述べている。体重は45kを割り、医者からは余命2年と診断された。友人に紹介された消化器系の治療で著名なキルミアー医師は彼の症状を診断しこういった。
「薬であなたを治すことはできない。」
「あなたは知性ある方だ。あなたを救えるのは自身の智慧と生きたいという強い欲求のみだ。」
その言葉を聴いたセラティは横たわったままじっと天井を見つめた。
彼は決心した。20年来吸っていたタバコをやめ、キルミアー医師の提言を受け入れ、弱った胃腸をいたわるため、繊維質の豊富な食事を少しずつ一日何回にも分けて摂るようにした。
徐々に体力を回復させていった彼はある日、競馬場を訪う。セラティは子供の頃から馬を愛し、その知性を愛でた。帰途、不思議な衝動が身のうちに湧くのを感じた。足を速め、小走りになり、そして徐々に速度を上げて地面を蹴って疾走した。息が上がり、心臓が爆発しそうになる。忘れていた感覚が蘇った。
彼は図書館で薬学、栄養学、生理学に関する本を読み漁り、自身の回復の助けになりそうなものなら何でも取り入れた。消化の負担になる肉食を止め、オートミール、ドライフルーツ、ナッツ類を好んで摂り、菜食するようになった。
動物性脂質を完全に排除し、果物、穀物、野菜に多く比重をおいた食事は彼を劇的に変貌させた。そして体を動かしているときは頭痛も軽減されることに気がついた。万能薬を見つけた彼は時に一日中外で過ごすようになる。泳ぎ、歩き、膝はまだ痛むもののその不快感を押しのけ、くたくたになるまで体を動かすと気が晴れ晴れとし、頭がすっきりした。
体をいじめればいじめた分だけ力がつくように感じられ、トレーニングの身体的辛さ、しんどさ、不快感は次第に耐えうるものとなり、その成果は驚嘆すべきものとなった。
若かりし頃より初めて彼は身のうちに強さを感じた。
「いくつになろうとも運動を始めるのに遅いということはない。」というジョージ・ハッケンシュミットの言葉は44歳になる彼を奮い立たせた。(1878年エストニア生まれのレスリングチャンピオン、ロシアンライオンの異名をとった)
四半世紀にわたって陸上競技から離れていた彼を触発したのはアーサー・ニュートンの本であった。(1883年英国生まれ、39歳のときからランニングキャリアーを再出発させ、多くの長長距離走の記録を打ち立てた。ロンドン、ブリングトン間50マイル、100マイル15時間、60マイル7時間33分でそれぞれ走破)ニュートンの経験から裏打ちされたトレーニング方法はセラティのランニングの復活に大いに役立った。
徐々に距離を増やすこと。無理をしないこと。試合には出過ぎないこと。始めに飛ばしすぎないこと。腕の動きは最小限に抑えること。こぶしは軽く握ること。無駄な動きをなくし、楽に走ること。足裏全体で着地すること。地面には軽く、スムーズかつすばやく着地すること。最も重要なことは効率よく走ること。
また東洋の哲人、クリシュナムルティからも多大な影響を受けた。
彼はこう綴っている。
クリシュナムルティからはほかの誰よりも多くを学んだ。
キリストからは生きていくための節度を。
アッシジのセントフランシスコからは手本を。
アインシュタインからは科学的アプローチを。
ベートーベンとヴェルディからは音楽への愛を。
ダヴィンチとミケランジェロからは美への憧憬を。
ギリシャの哲人たちからは理性を。
イタリアからはロマンスを。
しかしクリシュナムルティは何よりも私を目覚めさせてくれた。」と。
最終的に彼を身の破滅から救ったのは、徒労に等しかった生きる意味の追求から解放であり、クリシュナムルティの教えが大きくそれに寄与した。
後年彼は神についてという題でこんな風に書いている。
「われわれは神を見出すことも神に近づくこともできない。神がわれわれを見出すのである。幸せを追い求めることを止めたときに自ずと幸せが訪れてくるように。神がいるのではなく、神はただそこに在わすのである。」
ジョージ・ハッケンシュミットの論理は彼を完全に捉えた。ハッケンシュミットは文明発達以前の人間の暮らし、生き残るために必死であった人々の環境を考え、それをトレーニングに取り入れた。その要諦はウェイトトレーニングにあり、セラティはバーベルを購入しトレーニングに励んだ。
筋力がつくと共により遠くへそしてより速く走れることに気づいた。
1942年の早春、痩身で白髪の鋭い目をした男がマルヴァーン・ハリアーズランニングクラブに姿を現しこう言った。
「私はかつてここのメンバーだった。そして今また走ろうと思う。」
誰も彼のことを知らなかったがそれも無理はなかった。セラティがハリアーズのユニフォームを着ていた頃から25年が過ぎ彼自身47歳になっていたのだから。
彼の顔はしわに刻まれ、髪も白くはなっていたが、その体はまるで20代の若者のようであり、皮膚は浅黒く健康的に焼け、程よく筋肉のついた引き締まった体躯であった。
1942年12月15日1マイルを4分50秒で走り、翌年の1月30日には21歳のときに出したベストタイムを切る4分31秒で走った。一月あまりのトレーニングで25秒を縮めたことになる。
若い選手に混じって走る銀髪の男はたちまち周囲の関心を引いた。彼は競技の世界へと再び足を踏み入れ、そして今回は自らを実験材料として走った。
「人間は有機体であり、もともと自然の一部であるが、現在いわゆる文明というものにより、自然からはかけ離れた存在となってしまっている。自然への結びつきを再び強固にすることでわれわれの本性が明らかになるだろう」。
自身の体験から本能的に癒しを求めて自然回帰への道をとったかれは今このことを皆へと伝えるべきだと思った。
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